« シャルル3世 (西フランク王) | メイン | 江戸幕府が一般の廻船と天領からの年貢米 »

織田信長は勢力拡大の過程で志摩の守護九鬼氏出身

織田信長は勢力拡大の過程で志摩の守護九鬼氏出身の九鬼嘉隆を臣属させ九鬼氏を主体とした水軍を編成した。嘉隆率いる織田氏の水軍は長島一向一揆の征伐や石山合戦に参加して活躍し、信長の死後には豊臣秀吉に引き継がれる事となる。秀吉はさらに淡路や四国を領有するとその沿海部の領主として子飼いの仙石秀久、小西行長、加藤嘉明、脇坂安治らの武将を送り込み、それぞれに水軍を編成させて九州征伐や小田原征伐に参戦させた。

戦国時代後期から江戸時代初期の大名が編成した水軍においては、安宅船と呼ばれる数十人から数百人が乗り組む巨船が配備され、巨船同士の大規模な海戦も行われるようになる。安宅船などの日本の水軍の軍船は竜骨を持たない和船の一種であるが、楯板で厳重な防備が施され、大鉄砲や大砲など強力な武装が取り付けられるようになった。その代表的なものは織田信長が命じ、九鬼嘉隆が建造した鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)である。

秀吉は九州征伐翌年の1588年8月29日(天正16年7月8日)、秀吉は刀狩令とともに海上賊船禁止令を発布し、海賊衆の財源であった通過商船の有償警護などの活動を海賊行為として禁圧、海上の土豪たちに領主の支配に服することを命じた。この命令以降、村上水軍の能島氏は毛利氏の家臣となって毛利水軍を率いることになり、秀吉に直接服属した来島氏は秀吉直属の大名に取り立てられて豊臣氏のための水軍を負担することを命ぜられたように、かつての海賊衆たちは豊臣氏を頂点とした大名権力の水軍に再編を強制された。こうして編成された豊臣政権の水軍は、1592年に始まる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)大々的に投入されることになる。

豊臣氏にとってかわった徳川氏は海外進出に消極的で、大船建造の禁令を発して諸大名に本格的な軍艦を建造することを禁ずるとともに、来島氏を豊後森、九鬼氏を摂津三田と水軍大名を次々に内陸に移して海事から切り離させた。徳川家康自身は、五カ国領有時代から今川氏、武田氏の水軍を継承して向井氏、小浜氏、千賀氏、間宮氏からなる徳川水軍を編成していたが、江戸への移封後はこれらが関東に随行してそのまま江戸幕府の水軍となった。幕府水軍の拠点は三浦半島の浦賀と江戸の日本橋に設けられ、1631年に建造された将軍の御座船安宅丸を初めとする巨船を擁した。しかしやがて鎖国の時代の到来とともに幕府艦隊も縮小され老朽化した安宅丸も解体、本格的な水軍は日本から消滅する。
宿泊施設 やせる SEM促進 調査 経営 リラク リフレ 電器製品 老人 植物 楽器教室 中国四国 学校 予約 化粧品 SEO対策 エステ マンション グルメ 老人 料理 精神医学 通信販売 資格 ファッション 予備校 地域情報 育毛 海外 サプリ 分譲 育児 矯正 賃貸 クレジット 老人 葬儀 精神医学 家電 専門学校 教育 教育 産業 しわ取り 税理士 化粧品 起業 自動車 内職 癒し

江戸時代には、幕府や海辺に領地をもった大名は船手組、船手方、船手衆などと呼ばれる水軍をもち、幕府では向井氏、長州藩では能島氏、尾張藩では千賀氏のようにかつての海賊衆の末裔たちが世襲して維持したが、戦争の絶えて久しい平和な時代にあっては領内の海上交通を管理したり、領内巡察や参勤交代などで大名が船旅するときに船を出したりする程度の役割でしかなかった。幕末に至って欧米諸国を範に幕府や雄藩は近代的な艦隊の創設に向かうが、そのときにはすでに海軍という用語が用いられ、水軍の名は過去のものとなる。しかしながら、幕末の海軍創生期には、水夫達のかなりの人員が水軍の伝統ある地方の出身であった。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.bwkht.com/blog/mt-tb.cgi/1197

About

2009年06月06日 13:10に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「シャルル3世 (西フランク王)」です。

次の投稿は「江戸幕府が一般の廻船と天領からの年貢米」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35