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2009年04月 アーカイブ

2009年04月05日

まわり将棋

まわり将棋(―しょうぎ)は、将棋の駒を用いて遊ぶ双六に似たゲームである。

基本ルール [編集]
※次に記すのは基本的なルールである。厳密な規定が存在しないため、各地に多数のローカルルールが存在する。

将棋盤と将棋の駒を用意して、まず歩兵と金将を4枚ずつ揃える。
まず、「1九」と「9一」のマス目に歩兵を1枚ずつ置く。
金将4枚を将棋盤の

かってまっすぐ読める状態の)金将 → 20(しかし、この状態になるのはごく稀である為、ローカルルールで30から100などの高得点とする場合も)
裏向きの(何も文字が書いていない方が上を向いている)金将が4枚揃う → 8(次の角にワープするルールもある)
上の結果の金将が示した数の合計数だけ「1九」→「1一」→「9一」→「9九」→「1九」→…に向かって駒を動かす。ただし、金将が2枚以上重なったり(山)、1枚でも将棋盤の外に飛び出したり(川)したら金将の向きに関わらず0とする。
ぴったり角(カド、「1九」「1一」「9一」「9九」のいずれか)に止まったら香車に交換する。
これを繰り返し、香車で角(カド)に止まったら桂馬に交換し、桂馬で角(カド)に止まったら銀将に交換する。以下同様にして角(カド)に止まる毎に成銀(金将の代わり)、角行、飛車、王将と交換していき、王将で角(カド)に止まったらあがりである。

備考 [編集]
この他、ぴったり角(カド)に止まらなくても一周すれば次の駒に交換できるとするルールや、外から内側に駒を動かして「5五」に到達すればあがりとするルールもある。様々なローカルルールについてはこの記事のノートを参照のこと。

起点となるマス目に「1一」と「9九」も加えて、同時に4人まで対戦可能である。

レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク


2009年04月22日

神の存在証明

神の存在証明 (かみのそんざいしょうめい,英語:Arguments for the Existence of God) とは、主として、中世哲学における理性による、神の存在の根拠の提示を意味する。神の存在は、諸事物の存在が自明であると同様に、自明であったが、トマス・アクィナスが『神学大全』において取った立場が示すように、神は、自然なる理性においても、その存在や超越的属性が論証可能な存在である。このように神の存在を、理性(推論)によって導出する手順が、「神の存在証明」と呼ばれる。神の存在証明は、古代から中世にかけての哲学的思索のなかで、代表的には三つのものが知られ、これに、三つの神の存在証明をすべて論駁し否定したイマニュエル・カントが、彼自身の哲学の帰結として要請した「神の存在」の根拠が加わって、四種類が存在する。

また、この四種類の存在証明は、いわば典型的な論証形式のパターン区別に当たり、他の様々な個別的な思想家による、神の存在証明の試みがあった。
四種類の存在証明は、カントがなした分類に従って、通常、次のように呼ばれる。

目的論的証明:世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を作ったからだ。
本体論的証明:「存在する」という属性を最大限に持ったものが神だ。
宇宙論的証明:因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと根本原因があるはず。この根本原因こそが神だ。
道徳論的証明:道徳に従うと幸福になるのは神がいるからだ。
前三者は、カントが『純粋理性批判』において中世以来の神の存在証明をその論駁のために独自にまとめたものである。しかし、神の存在証明の分類としてよくまとまっているため説明の際にしばしば使用される。

目的論的証明
世界の事物は、自明的に存在し、それらはきわめて精妙かつ、壮大な秩序と組織原理を持っている。太陽や星の運行を見れば、その規則性には驚くべきものがある。あるいは、植物の花や葉や枝などを見ると、信じ難い精巧さで造られている。動物の身体などは、更に精巧で見事であり、人間となると、もっと精巧である。しかも自然世界は、草を食べる牛がいれば、牛を食べる狼や人間が存在し、空から降る雨は、適切な季節に大地を潤し、植物の生長を促し、その実の熟成を、太陽の光が促す。

このような精巧な世界と自然の仕組みは、調べれば調べるほど、精巧かつ精妙で、人間の思考力や技術を遥かに越えている。世界に、このような精巧な仕組みや、因果が存在するのは、「人知を超越した者」の設計が前提になければ、説明がつかない。すなわち、自然の世界は、その高度な目的的な仕組みと存在のありようで、まさに神の存在を自明的に証明している。

これはカントにおいては自然神学的証明とも呼ばれる。

現代においては、インテリジェント・デザインが目的論的証明と同様の立場を取る運動として著名である。

本体論的証明
アンセルムスが、このような形の神の存在証明を試みたので有名である。しかし、この証明は中世哲学において、極めて一般な証明議論であった。

クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

この証明は、カントが論破したことで有名であるが(目的論的証明も宇宙論的証明もカントによって論駁された)、「存在する」という事態を、「属性」として捉え、例えば、次のような論理を述べる。「存在するという属性を、最大に備える存在者が存在する。何故なら、存在するという属性は、他の存在者もすべて備えているが、そのような属性を「最大に持つ者」は、まさに、自明的に存在するからである」

このような「最大の存在属性を持つ者」こそは、神である。それ故に、神は存在する。

宇宙論的証明
中世哲学で、「宇宙論的証明」と呼ばれる神の存在証明の論証手順は、古典ギリシアのアリストテレスに遡る。事物や出来事には、すべて「原因」と「結果」があると考えたのはアリストテレスである。従って、神の宇宙論的証明は、アリストテレスがすでに行っていた。

中世スコラ哲学は、13世紀の「アリストテレス・ルネッサンス」の言葉で知られるように、アラビア・スコラ哲学を介して、古代ギリシアの哲学者、とりわけアリストテレスの思想を取り入れたところで成立したとも言える。トマス・アクィナスは、アリストテレスの根本の原因者の概念を、キリスト教の神に当て嵌めて、この証明を行った。

すべての事物や出来事には、必ず原因があり結果がある。これは原因とか結果の概念は何かを考えれば、必然的に妥当な命題である。ところで、宇宙には、運動している物体がある。物体が運動するには、何か原因がなければならない。原因となった出来事が存在して、はじめてこの宇宙での物体の運動という出来事は説明される。そこで、原因となった出来事を考えると、この出来事にもまた原因がなければならない。こうして考えると、出来事の「原因」の序列は、より根本的な原因へと遡行して行くことになる。しかし、この過程は「無限」ではないはずである。宇宙には「始まり」があったのであれば、原因が無限に遡行するというのはおかしい。それ故、一切の運動には、原初の根源原因があるはずであり、出来事の因果は、この根源原因よりも先には遡らない。これこそ「神」であり、宇宙に運動があり、出来事があるということは、その根源原因である「神の存在」を自明的に証明している。

この証明に対し、出来事の原因と結果は、必ずしも一対一ではないという考えがある。原因は一つとは限らないし、結果も一つとは限らない。しかし、原因が仮に非常に多数あったとしても、それらの多数の原因となる出来事の原因を尋ねて行けば、やはり、根源の宇宙の初原の原因に辿り着かざるを得ない。この初原の原因が、すなわち神である。

あるいは、神の世界創造を否定して、宇宙の時間は無限にあるなどという議論も可能かも知れない。原因は無限に遡行して、根源の原因には辿り着かないという可能性である。しかし、我々の世界はそもそも「有限の世界」であり、宇宙が無限だというのなら、そのような宇宙は、この世界に対し超越的であり、超自然である。もし無限の宇宙があるなら、それこそ神の存在の明証である。このような論証を、「神の宇宙論的証明」と言う。


2009年04月23日

シャルル3世 (西フランク王)

シャルル3世(Charles III, 879年9月17日 - 929年10月7日)は、西フランク王国・カロリング朝の国王。ルイ2世(吃音王)の子(在位:893年 - 923年)。単純王(le Simple)と呼ばれるが、この渾名は愚鈍ではなく正直を意味する。

異母兄のカルロマンが死んだ後、統治を行うには幼すぎたシャルルは、王位継承から除外された。大修道院長ユーグ(Hugues)を筆頭とする西フランク王国(現在のフランスにほぼ相当)の諸侯たちは、名目上西ローマ皇帝であったカール3世(肥満王、西フランク王としてはシャルル2世)を国王として選んだが、それは、幼いシャルルが成年に達するまでの間の統治を確実なものとするためであった。だが、肥満王カール3世の廃位の後、王国の諸侯たちが国王として選んだのは、パリ伯ウードであった。

ウード王が王国の頂点にあったにも関わらず、893年1月28日、ランスのサン=レミ修道院(l'abbaye Saint-Remi)において、シャルル3世は王として聖別された。聖別はランスの大司教フルク(Foulques)によって行われたが、フルクは精力的なカロリング朝(la dynastie carolingienne)擁護派であった。が、シャルルが実際に王国の統治にあたったのは、898年1月1日にウード王が死んでからであった。

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ノルマン人の侵攻は、西フランク王国を長らく脅かし続けていたが、シャルル単純王はその問題を解決することに成功した。911年、ヴァイキングの長ロロ(ロロン、Rollon)と結ばれた、サン=クレール=シュール=エプト条約(le traité de Saint-Clair-sur-Epte)により、ノルマンディー地方はノルマン人たちに与えられ、ノルマンディー公国となった。それと引き換えに、ロロはセーヌ川沿岸地帯への襲撃を慎み、洗礼を受け、シャルルとその前妻との間に生まれた長女ジゼルを妻とすることを約束した。

しかしながら、このシャルル単純王も、当時形成されつつあった封建領主――幾多の城塞中に身を潜めた封建領主たち――に対しては無力であったし、王国の諸侯たちとは闘争を余儀なくされた。とりわけ、シャルルと激しい敵対関係にあったのが、ジルベール・ド・ロレーヌ(Gilbert de Lorraine)、ラウール・ド・ブルゴーニュ、ロベール・ド・フランスであったが、そのうち、ロベールはウードの弟であり、ユーグ・カペーの祖父となる人物だった。

東フランク王国(現ドイツにおおよそ相当する)でカロリング朝の血筋が途絶えると、シャルルはロレーヌ(ロートリンゲン)の領有権を主張し、その地の王位を得て、西ローマ帝国に対する自らの権利を明確にした。だが、ゲルマニアのリウドルフィング家のハインリヒ1世(捕鳥王)に敗れた。

先王ウード1世の弟であるロベールは反乱を起こした。そして922年6月29日、自らを王として選ばせ(ロベール1世)、彼を選んだ諸侯たちはシャルルの廃位を宣言した。

シャルルは廃位を拒み、ロレーヌから反撃に出た。ロベール1世は923年6月15日、ソワソンの戦闘の際に戦死したが、息子ユーグ・ル・グランは父親の亡骸を見せて兵たちを鼓舞し、戦闘はシャルルの敗北に終わることとなる。

封建諸侯たちはシャルルを国王と認めることを拒み続け、シャルルよりもラウール・ド・ブルゴーニュ(ユーグ・ル・グランの姉婿)の側についた。無冠の王となったシャルルは、もはや孤立無援となり、臣下のエルベール2世・ド・ヴェルマンドワ(Herbert II de Vermandois)が提供した保護を受け入れるのが良策と信じた。だが、ロベール1世の娘婿であったエルベールは、裏切り行為により、923年7月17日にシャルルを投獄してしまった。当初シャルルはシャトー=ティエリ(Château-Thierry)で拘禁され、その後、924年にペロンヌ城(現ソーム県)の塔に移送された。929年10月7日、6年間の獄中生活の果てにシャルルは死去し、その亡骸はペロンヌのサン=フュルスィ(Saint-Fursy)教会に葬られた。

シャルルの妻、エセックスのエドヴィジュ(もしくは、オドジヴ)([仏語] Edwige (Odgive) de Wessex , [英語]Eadgifu)はイングランドのエドワード長兄王([仏語] Edouard l'Ancien, [英語] Edward the Elder)の娘であった。彼女は安住の地を求めて、息子とともにイングランドへ逃れたが、その息子こそが、未来のフランス国王ルイ4世であった。彼のあだ名が「外洋のルイ4世」(Louis IV d'Outremer)というのは、このイングランド亡命の故である。

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