ドレッド・スコット判決およびレコンプトン憲法
南北戦争の前、2大政党制の安定感は伝統的に国を纏める力となっていた。過去に、古い政党制は国の様々な地域の地方的な利益とエリート階層の政治的ネットワークの間に、連携や同盟が生まれ、そのやり方に起因する分裂を続けていた。アメリカの制度的構造は党派間の問題や不一致を扱うことができた。1850年代以前、既に西部の奴隷制問題を中心とする党派間論争が起こっていた。これらの論争が南北戦争を導いたのではないが、むしろ1820年の妥協と1850年の妥協を生んだ。
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しかし、第二次産業革命が北部で活発になるにつれて、南部寄りの民主党は、南部の発展に対して輸送、関税、教育および銀行政策が段々と障害になっていくように見なしていた。さらに近代的資本家の発展が北部の経済と社会を変えるにつれて、それに呼応する大衆政治の隆盛が古い2大政党制の安定感を蝕んでいた。1856年以降は党派理論がより辛辣なものとなり、大衆政治の成長は共和党改革派によるパンフレット、演説および新聞の記事の助けを借りて、理論が政治に入ってくることを許した。かっては単にエリート階層が関わっていた党派的緊張関係は、徐々に自由土地や自由労働の大衆理論による意味合いを増していた。憲法でさえも分派の原因として浮上してきた。1857年、最高裁の「ドレッド・スコット対サンフォード事件」の判決は憲法の曖昧さを浮き彫りにし、憲法に対する国民的敬意が与えていた国の結合力をも弱めることになった。
政治における党派の利益の間のバランスを保つ力に不可欠なメカニズムはかなり陳腐化されていたが、ランダルやクレイブンといった修正主義の歴史家は、国がより有能な世代の政治家に導かれれば、その修復は不可能ではないとしていた。1858年のレコンプトン憲法(カンザス準州で作られた州の新憲法)に関する論争は共和党の中道から保守の一派と中央の管理を嫌う南部の者との連衡について絶好の機会を提供することになった。
共和党員と中央の管理を嫌う民主党員
ブキャナン大統領は、カンザスでの問題を終わらせるために、レコンプトン憲法の元でカンザスを奴隷州として認めることを議会に働きかけた。しかし、1万人以上となっていたカンザスの有権者はこの憲法を完全に拒絶した。これには少なくとも両派によって広められた投票に関する不正な手段も絡んでいた。ブキャナンはその政治生命をかけてその目的を達成しようとしたが、共和党員を更に怒らせ、自分の党員からは疎んじられることになった。スティーブン・ダグラスの一派は中央の管理を破ろうと動いていたが、このブキャナンの計画はカンザス・ネブラスカ法がよって立つ人民主権という原則を曲解する試みと見なした。国中で、あたかも州の権限の原則が侵害されたかのように感じ取り、保守的な意見の力が増した。南部でさえも、元ホイッグ党員や境界州のノウ・ナッシング党員、中でも顕著な者であるジョン・ベルやジョン・クリッテンデン(党派間論争の時にはキーとなっていた人物)が共和党に働きかけて中央管理の動きに反対させ、新領土は主権を受け入れるか拒絶する権限が与えられるよう要求した。
民主党の中の亀裂が深くなり、中道共和党員は中央の管理を嫌う民主党員、特にスティーブン・ダグラスとの連衡をすれば1860年の大統領選挙で絶対的有利になると論じた。共和党のオブザーバーの中には、フレモントがほとんど支持を得られなかった境界州で民主党の支持者を奪う機会としてレコンプトン憲法に関する論争を見る者もいた。結局境界州は、合衆国からの南部の脱退の恐れを刺激することなく、過去に支持した北部に基盤のあるホイッグ党の支持に動くことが多かった。
共和-民主連衡の戦略に反対したのが「ニューヨーク・タイムズ」だった。党派間の緊張関係を和らげるために「奴隷州はもういらいない」という妥協的な政策を採って、人民主権に対する反対を共和党は軽視していると抗議した。タイムズは共和党が1860年の大統領選挙で戦えるために、ブキャナンの裁定で動揺したような有権者全てを含めて支持基盤を拡げる必要があるという立場であった。
実際に民主党主導政治に対する反対が増す中で、その反対意見を纏める連衡についての圧力が強かった。しかしそのような連衡は新しい考え方ではなかった。それは基本的に共和党を国内の国民的、保守的合同政党に変えることを意味していた。実質的に共和党はホイッグ党の後継者になる可能性があった。
しかし、共和党の指導者は奴隷制に関する党の立場を変えることは断固として反対した。例えば1858年のクリッテンデン=モンゴメリー法案に92名の共和党下院議員全員が賛成票を投じた時、その原則が崩されたと考えて驚愕した。この妥協手段はカンザスが奴隷州として連邦に加盟することを阻んだものの、奴隷制の拡張に対する徹底した反対ではなく人民主権を求めていたという事実は党指導者を悩ませることになった。
結局、クリッテンデン=モンゴメリー法案は、共和党、境界州の元ホイッグ党および北部の民主党による中央管理反対大同盟を作らせることにはならかった。その代わりに、民主党は単に党を割っただけだった。反レコンプトン民主党員は新しい奴隷制度擁護という試験が党に課されていると嘆いた。しかしダグラスの一派は中央管理の圧力に屈することを拒んだ。当時共和党に鞍替えした反ネブラスカ法民主党員と同様に、ダグラス派は中央管理ではなく彼らが北部民主党大半の支持を得ていると主張した。
南部の過激的思考をする者達は、南部の農園主階層が中央政府の行政、立法および司法組織への支配を弱めたので、劇的に前進できた。また南部の民主党は民主党内の同盟者を通じて北部諸州の多くにおける力を操ることが難しくなっていった。